成長という蜃気楼(記事メモ)
“素敵だなと思う人”のひとり、ハブチンさんの記事。
なるほどーと思うことが多いのだけれど、今回の記事は何となく違和感(?)があって何度か読み返しちゃう。
記事からピックアップ。
本業を頑張るだけでは足りずに、会社を飛び出して東京砂漠を駆け巡るとみえてくる、「成長」という蜃気楼が。
そんな喉から手が出るほど追い求めていた「成長」という蜃気楼が、起業してから自分でも嘘かと思うほど見えなくなった。
「成長」の蜃気楼を 追いかけていたときは、ここではないどこかにオアシスがあると思っていて、足元は砂漠だと思っていた。しかし日々の「暮らし」をむきあうことで、足元はオアシスになる。蜃気楼は見えなくなっていた。
暮らしと向き合うことで、自分と同じように困っている人がいることに気づく。
「成長」ができてなくても関係ない、困っている人たちのために、今自分ができることで貢献する。そうすれば蜃気楼を追いかけなくても、成長はあとからついてくるのではないだろうか。
“蜃気楼”という表現が「成長」を求めることに否定的なニュアンスを感じつつ、そうではないようにも捉えられる。
「成長」ってなんだ?
もやもや考えてるうちに「そういや成長ってなんだっけ?」と。
検索するとわりと上位に表示されたブログが参考になった。
成長とは、「長けた仕事」を超え、「豊かな仕事」をするようになることである。
「長けた仕事」とは技術的な成長の観点、物事の処理の「巧拙(上手か/下手か)」。
「豊かな仕事」とは精神的な成長の観点、その仕事の「意味」のこと。
これをドラッカーの言葉で説明する。
「指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。そのとき彼は、初めて音楽を聴いた。
その後は上手に吹くことを超えて、音楽を創造するようになった。 これが成長である。 仕事のやり方を変えたのではない。意味を加えたのだった」。
誰しも入社3年くらいまでの間や、新しい業務を任された当初は、技術が伸びる「喜び」がある。しかし、仕事慣れしてくるにしたがって惰性が生じてくる。仕事に対するモチベーションの低下やキャリアの停滞感もそうしたところから始まる。
組織はそうした状態に対し、ジョブローテーションによる異動や新しい役割を与えるなどして従業員の意識をリフレッシュさせようとする。それはそれで有効的な“外科的”な方法ではある。
しかし、その人がほんとうに次の成長ステージに上がっていくためには、“内からの”変化が要る。それがすなわち、みずからの仕事に対し、意味を満たす「喜び」を見出せるかどうかだ。真の成長は「内的変革」にあり、これがなされてこそ次の技術的成長も起こる。そしてそこからさらに精神的な成長があり、内的変化が起こる。この絶え間ない循環がキャリアを無限に開いていく。
「豊かな仕事」の域
おそらくハブチンさんは「豊かな仕事」のフェーズに入られていて、「長けた仕事」を越えたので、それを「「成長」の蜃気楼が見えなくなった」って表現されているのかなと解釈。
日々仕事をしている中で、悩んだり迷ったりするのはよくあること。
前出のブログによると、この域は「長けた仕事」を越えていける域。
日々ある悩みや迷いは、「豊かな仕事」を妄想しながら一方で「長けた仕事」が片手落ちであることがその原因なのかもな、と(そりゃそーだ)。