『結局、人生はアウトプットで決まる』読書メモ
やや煽り気味のタイトルですが、発見や共感がいくつもある本でした。
この本は、「読む」「聞く」「体験する」ことによるインプットと、「書く」「話す」「行動する」ことによるアウトプットを繰り返すことで、近い将来やってくる「AI(人口知能)が人間の仕事を奪う大量失業時代」に、AIに負けない価値をつくる本です。
「仕事消滅時代」と言われる現在、人はますます一人では生きていけなくなります。人と人を結びつけるもの、それは仕事でもお金でもなく、「さまざまなアウトプットを通して作られる信頼関係」なのです。
著者は、ウィンドウズ95の開発者として、また「日本語とオブジェクト指向」のエントリーでも有名な中島聡氏。
AIが代替できないアウトプット
曰く、アウトプットには「アウトプットもどき」があるので注意が必要。
たとえば、単にネットから集めて来た情報をそのままアウトプットしたり、その事象や上部の感想だけを捉えた「浅い意見」を加えたりすること。ここにあなたの付加価値は存在していません。
ポイントは「生の情報を直接受け取ること」。
この場合の生の情報とは、一次情報のこと。自分から生の情報に触れ、それに基づいた自分なりの解釈をする。
そうすることで日々見聞きするニュースの「流れ」や「つながり」が見え、様々な視点から物事が捉えられるようになる。それにより「その人にしかできないアプトプット」が出来るようになる。
このことについてAIと比較すると、AIは速報性や素早いデータ分析をもとにしたアウトプットはできるが、「情報に自分なりの解釈を加え、わかりやすく伝えること」は不得意。AIにはできないアウトプットが続けられれば、結果、自身のパーソナルブランド(個人の信用)を構築することもできる。
文章は「情報を伝える道具」(でしかない)
「書く」ことに何となく苦手意識を持っている人は多い。その感情を抱かせる原因は、文章は情報を伝えるツールにすぎないということを理解していないから。
その背景には、小学校時代の国語教育がある。例えば読書感想文で求められるのは、小説に出てくるエピソードを適当に選び、自分だったらどう感じるか?どう行動したか?など、登場人物をいちいち自分に投影しながら書く。〆には「面白かった」という感想が量産される。
さらに生徒も「面白かった」だけでは具体性に欠けるといわれるため「○○の時はとてもハラハラした」など、「先生に褒められるためには、どんなことを“感じた”ことにすればいいのか」と、忖度クセがつく。
これだと文章は上手くならない。
そもそも、文章とは感想や感情ではなく、「情報を伝える道具」。
本来なら、筆者の感情や意見を100%排除し、描写力など文章表現自体の技術を磨かせるべきなのです。
ウィットに富んだ表現や美しい文章といった類の表現に関しては、「文学」などの教科に分けて教えるべきでしょう。応用編は置いておき、まずは、その道具を使いこなす技術の習得に専念すべきなのです。
まとめ
本文の中に、こんなフレーズが出てきます。
「自分にしか書けないことを、誰にもわかるように書く」この言葉にこそ、ブログを書くことの楽しみのエッセンスが凝縮されているといえます。
これは本当にそうだなぁと思います。
私もブログはよく書く方なのですが、特にイベント参加レポートを書くときには「自分にしか書けないこと」を志向しています。
意識しているのは、「事実」と「解釈」の両方を書くこと。またこの2つを混同することなくしっかり分けること。
「事実」だけであれば、抜け漏れなく登壇者の話した内容が知れる『ログミー』のようなサービスがあるし、「解釈」だけも何か違う(ウェットすぎてお腹いっぱいというか)ので両方必要。
また、「事実」については、本に書かれているように「自分自身で触れる」ことを大切にしていて、自分で足を運び、体験したことしか書かない。そうすることで書かれている内容の信憑性も高まるし、ある程度自信をもって書ける。また、自分で体験しているからこそ「解釈」の説得力が増す。
...みたいなことができたらいいなと思い、日々精進(即ちまだできていない)。
そんな修行中の身ではありますが、最近ブログ書くと例えばイベント主催者や登壇者、参加者、参加したかったけどできなかった方々から、便利がってもらえることが増えてきました(これが本の中にあった「さまざまなアウトプットを通して作られる信頼関係」なのかも)。
もともとは自分の備忘メモで始めたブログですが、こうやって他人に喜んでもらえるのは、とても嬉しいこと。これからもどんどん書くぞー!